科学記者を始めた20年ほど前、記者の訪問を歓迎しない科学者は、けっして珍しくなかった。 「新聞記者との付き合いには何のメリットもなく、時間の無駄。記者と親しい科学者は、同僚からうさんくさい目で見られる。真理の探究に没頭する科学者が、記者なんていう世俗を相手にしては沽券(注1) にかかわる」というわけだ。それが今は、まったく違う。科学者も、研究に税金を使うからには自分の仕事を積極的に世間に説明するのが当然だとみなされ、大学や研究所はメディア戦略を練るまでになった。変われば変わるものだ。
(中略)
科学者側の広報が巧みになればなるほど、科学ジャーナリズム科学者集団のたんなる宣伝係で仕事をした気になってしまう恐れがある。
「サイエンス」や英国の「ネイチャー」に載る科学者の論文を、どの新聞も毎週のように記事にして紹介している。その多くが、これらの論文誌の巧みな広報資料や研究者の記者発表をもとにしているのだが、これなどまさに、何を社会に伝えるかは自分で決めるというジャーナリズムの要(注2)を、科学者集団側になかば預けてしまっているのではないか。
自分でネタ探しをするよりも、このほうがたしかに効率的なのだ。
米国の科学ジャーナリズムの教科書には、科学者たちはマスメディアを自分たちの広報機関のようにとら
えるものだと書いてある。科学ジャーナリズムは、広報戦略に長けてきた(注3) 科学者たちとどう付き合っていくべきか。
その哲学と戦略を、こちら側も改めて肝に銘じて(注4)おかなければならない時代になった。
(YOMIURI ONLINE2010年3月7 日取得による)
(注1) 沽券にかかわる:体面を損ねる (注2) 要:最も大切な部分
(注3) 長けてきた:上手になってきた
(注4) 肝に銘じて:忘れないように心にしっかりととどめて
変われば変わるものだとあるが、科学者はどのように変わったのか。