以下は、歴史を研究する人に向けて書かれた文章である。
私たちが生きている現在でも、ちょっと過ぎれば時間的には過去となる。で は、少し前の自分の経験がどういう状態であったのだろうか、という場面を、記憶や資料をもとに正確に再現することはできるであろうか。全体について漏れなくすることは、どうあがいても(注 1)できない。(中略)過去を生きた人たちの喜びや楽しみにしても、苦労や苦しみにしても、正確にはわれわれはそのごく一面しか推察できないのだ、という限界についての謙虚な自戒が、歴史を問うにはまず必要だと私は考えている。
そのうえで、現在を生きている人間が、ある問題について関心をもって問いかけるとき、はじめて歴史像を描く道への出発点ができる。そうやって問いかけがあってはじめて、なにを史資料として利用できるであろうか、というつぎのステップの問いへと続いてゆく。あるいは過去からの遺物に接して興味をそそられ、そこから歴史への扉が開かれる、という場合もあるかもしれない。いずれにしても、そうした問いがあって、ある文字表象(注2)や物体が史料ないし資料としての価値を帯びるのである。
そうした手続きを踏むことによって、われわれは、歴史像の構築へと歩みだす。描かれる歴史像は、過去の実態そのものではない。タイムマシーンは残念ながらないのであるから、そこには、歴史を問う者によって再構築された過去の一面についての像があるのみである。そこにあるのは、現在を生きる者によってなされた解釈の結果としての歴史像である。したがって、歴史像の再解釈ということは、つねにありうることといわなければならない。
(注1)どうあがいても:ここでは、どんなに頑張っても
(注 2)文字表象:文字で書いてあるもの
筆者によると、歴史を研究する人はまずどうすべきか。